幻の岩国工業港計画

江戸時代から幕末にかけて開墾された岩国のデルタ地帯の多くは農地でした。

初代 岩国市長「永田新之允(ながたしんのじょう)」氏が、岩国町長時代の1935(昭和10)年、「岩国工業港計画」という構想を打ち立てました。

錦川河口の海岸線一帯を、広島県との境である和木町沖から岩国市南部の由宇町まで数百万坪という広大な規模で開発する計画で、その第一次計画が川下沖の「岩国工業港計画」で、永田新之允氏はこの計画を内務省に協議し、同意も取り実行への手順を移しはじめたところでした。

ところが、当時の世相はいよいよ戦争への足音高くなる時。構想3年後の1937(昭和13)年4月、突然呉鎮守府の役人が当時の川下村を訪れ岩国工業港予定地を海軍航空隊として利用する という方針が一方的に告げられ、強制摂取されてしまいます。

聞き取り調査によると。呉から大佐らしき人が来て住民を集めて言ったそうです。「みなにいまから話す。長い間、天皇陛下がみなに貸しておられた、土地がこのたび必要になった。そのため返してもらう。むろんただではない。それなりの補償はする」

旧日本海軍による強制買上げは1坪(3.3㎡)あたり35銭でした。当時の物価は、アンパン1個 5銭。牛乳1本 8銭ですから、一坪、アンパン4個と牛乳2本に満たない値段だったわけです。
当時の軍部は直ちに大突貫工事で川下沖の海軍航空隊建設を開始し、数年で滑走路沖合移設前の岩国基地の形に整えてしまいます。

永田新之允市長の「岩国工業港計画」はこうして、幻の計画のまま消えてしまったのです。

参考:追跡!在日米軍 79年前の「岩国工業港計画」田村順玄さんより

http://www.rimpeace.or.jp/jrp/iwakuni/140104tamura2.html

昭和ひと桁の時期には、岩国に軍事施設は無く、川下の三角州の大部分は平地に田畑が広がる農村であった。1935年(昭和10年)に、五年後合併し岩国市になった5町村が「岩国工業港整備」を計画し、山口県知事・内務大臣に陳情した。

これは1937年8月付の「岩国工業港設計大観図」によると、「門前川を深さ8mに掘り下げ川下の現在滑走路がある辺りに幅150m深さ8m長さ三kmの運河を通し、尾津から川下・装束までの国鉄路線の海側の大部分を工業地域にする」などの計画であった。

『岩国の軍事化と戦災』桑田晃尾さん著 より

 

1919年 河崎熊一が河崎回漕店(現:河崎運輸機工株式 会社)を創立。回漕業を開始し、帝国人造絹糸 岩国工場新設工事に従事。

1920年 株価暴落による恐慌

1927年 我が国最初の大規模なレーヨン・フィラメント 工場である帝国人造絹糸岩国工場(現:帝人岩 国事業所)が操業。レーヨン長繊維の生産を開 始。

1937年 東洋紡績株式会社(現:東洋紡株式会社)岩国 人繊工場(現:岩国事業所)が操業。

1939年 第二次世界大戦。(~1945年)

工業生産額の対全国シェアが11位に上昇。

山陽パルプ工業麻里布工場(現:日本製紙株式 会社岩国工場)が、赤松を原材料とする溶解パ ルプ(人絹繊維用)生産のパイオニアとして操 業開始。

1940年~ 軍需関連産業の進出。

参考:山口県工場の沿革年表より yamaguchi_kougyou_enkaku2.pdf

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